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清水城・大乗院跡

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今回ご紹介するのが
清水城・大乗院跡(現在の清水中学校)です。

清水城・大乗院跡
※写真は 若宮公園に復元された大乗院橋と上町傘鉾の初のコラボです。

暦応4年(1341年)、島津貞久は東福寺城を攻め落とし、島津氏の本拠としましたが、海岸に迫った小山を使った東福寺城は要害の地ではあったものの狭くて通常の政務には適しませんでした。

そのため、貞久の息子・島津氏久は嘉慶元年(1387年)、やや内陸に居城を移すことになります。
これが清水城です。

清水城は、平地にある居館と裏山に築かれた「後詰めの城」の二重構造になっており、その後の島津氏の城の基本形となりました。

その後14代当主・島津勝久まで島津氏当主はこの清水城を本拠地としていましたが、天文19年(1550年)、15代当主・島津貴久は清水城から更に海岸に近い内城(現在の大龍小学校)に居館を移し、清水城の居館跡地には大乗院が築かれ、清水城の館部は廃城となりました。

しかし、後詰めの城までは放棄されなかったと思われます。

慶長6年(1601年)、徳川家康から所領と家督を安堵された島津忠恒は鹿児島城を築き始めますが、忠恒の父・島津義弘は、関ヶ原の合戦後で政情不安な時期に鹿児島城は要害の地ではなく本拠として不適格であること、家臣も新城建築の負担に耐えないとして、既存の城である清水城か一宇治城を使うように苦言を呈しました。

しかし、忠恒は鹿児島城(鶴丸城)の建築に固執、慶長9年(1604年)に鹿児島城が完成したため、清水城は実質的に廃城となりました。

居館跡が大乗院になったのは上記で述べたとおりですが、大乗院は廃仏毀釈で廃寺となり、現在跡地には鹿児島市立清水中学校が置かれています。

そのため居館には、城郭遺構は全く残っていません。

一方、「後詰めの城」の方は現在も曲輪や空堀の遺構が良好に残っていますが、登山道などは全く整備されておらず、簡単に見学できない状態となっています。

現在のプール側から入ると、みれないことはないのですが
あくまで、公共の場(清水中学校)ですので、ご注意ください。
 
清水城が手狭になり内城に移った後に建てられた寺が大乗院ですが、島津氏縁の場所に建つ寺院として歴代の藩主の尊崇が厚く、一乗院と真言宗藩内首座を争った寺院でした。

しかし明治2年の廃仏毀釈の時、それが災いして最初にターゲットとされ破壊された寺となったのがここです。

その跡には11世貫首・覚山の墓と門前の大乗院橋という石造橋のみが残されていました。
この大乗院橋は天保13年に肥後国の石工・岩永三五郎が作ったという屈指の名橋でしたが、平成5年(1993年)の鹿児島大水害(「8.6水害」と言われる)により流されてしまいました。

流された石橋は、若宮公園に復元されています。(上の写真がその橋です。)

鹿児島県歴史資料センター黎明館に島津義久が奉納したという「釈迦八相図」が、坊津歴史資料センターにこの大乗院の物であったという板戸が残されています。

また鹿児島市立美術館構内にある「じめさあ」とよばれる石像は、元々この大乗院の持ち物でしたが、廃仏毀釈後行方不明になっていたのを、1929年に当時の鹿児島市長が鹿児島城跡より発見した物だといいます。

ちなみに、大乗院自体はその後明治29年、鹿児島市長田町に「最大乗院」と名前を変え高野山の説教所として再興されています。

清水城・大乗院跡


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