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射場山跡と煙硝倉

丁度、NHK大河ドラマ「篤姫」にてペリー来航の頃をやっています。

日本の未来に先見の目のあった藩主:島津斉彬が、軍備を増強し始めた時代ですね。

私の地元、谷山にもその時代の史跡がありました!!

小松原のラ・サール高校の近くです。




射場山跡と煙硝倉

             射場山跡


弘化3年(1846年)にこの地で初めて御流儀様式砲術(洋式砲術)の演習が行われたのが、ここ小松原。

まだペリー艦隊が浦賀に来る6年も前のことです。

その後、藩主となった島津斉彬も、ここで行われた大規模な演習にも立ち会ったとの事。

そのあとに起こる薩英戦争までの軍備の礎となったのでしょう。



その時代に砲台があったのが射場山跡です。今でも標高にして10mぐらいの山になっていますよ。

ラ・サール高校の近くにある射場山跡公園の中にあり現在も保存されています。


射場山跡と煙硝倉

つい30年ぐらい前までは、この辺りは谷山塩屋町と呼ばれていました。

その昔、ここに塩田があった名残なのでしょうね。

今の産業道路が昔の海岸線だったのですよ!






さて、射場山跡から永田川に向かうと、川岸にこのような石碑があります。

射場山跡と煙硝倉

         煙硝倉(火薬製造所)


ペリー来航後、斉彬の命により安政5年(1858年)煙硝倉(火薬製造所)が造られた。

西洋人技術者の出入りがあり、薩摩藩でも重要拠点であったらしい。

演習場所の射場山に近い地の利で、ここに造られたのであろうと思われます。


「薩英戦争」やその後の明治維新に至るまでの内戦、「西南の役」で西郷軍が使った火薬はここで作られたのであろうと思われます。

その後は、西南の役が終わり政府軍の手で焼き払われたとの事。




この記事へのコメント
ぐっち [2008年03月10日 13:56]
へーーへーーーー!知らなかったです。
甥っ子と姪っ子が近くの病院で生まれたので、お見舞いがてらよく緑地でうろうろしていましたが、近くにこんな場所があったんですね。
しかも産業道路が海岸線だったんだ・・・。
ためちゃん [2008年03月10日 22:09]
厳密に言うと、産業道路沿いにある緑地帯が海岸線ですよ^^

谷山地区には他にも史跡があるのでご紹介したいと思います。
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射場山跡と煙硝倉
    コメント(2)